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釜石シーウェイブス ”ラグビーのまち”で這い上がった2011年の記録(後編)「シーウェイブスは特別なチーム」

2011年3月11日、岩手県釜石市も甚大な地震と津波の被害を受けた。

同市を拠点に置く釜石シーウェイブス(ラグビー)の選手たちは、震災翌日から地元の避難所に出向き、支援活動を行った。

街の惨状を目の当たりにし、”もうラグビーはできないだろう”と考えていた最中、スーパーマーケットから差し込む光や地元の方の声掛けに背中を押され、選手たちは復興に向けて再度動き出す。

前編に引き続き、”最後の新日鉄釜石戦士” 三浦健博氏・当時の主将である佐伯悠氏に登場いただき、激動のシーズン・復興についてお話を伺った。

(取材 / 文:白石怜平 、以降敬称略)

「ラグビーができることに感謝しよう」

チームは5月3日に活動を再開した。自宅が津波で流されてしまった選手もいたが、命は無事で全員が顔を合わせることができた。

佐伯はこの日が最も忘れらない日だと語った。

「不謹慎と思われるかもしれないですが、ラグビーが始まるっていうのはすごく楽しみだったんですね。もちろんラグビーができる環境はどうなのかなどみんなも思っていましたし、不安を挙げればキリがなかったです。

でも街の人たちの声もあって『ラグビーやっていいんだ』というのがありましたし、あの日が人生で1番ラグビーが楽しかった日だと思います。選手たちみんなそう感じたのではないかと。

子どものようにはしゃぎながら走ってて、ヘリコプターがグラウンドに降りるというので、その間は外を走るとか、今考えるとものすごい状況でやっていましたけども、あの日は純粋に『ラグビーが楽しい』と思いましたし、忘れらない日でしたね」

再開初日のことが忘れられないと語った佐伯

そして震災からちょうど半年経った9月11日、秩父宮ラグビー場で日野自動車(現:日野レッドドルフィンズ)との開幕戦を迎えた。

1部に所属していたシーウェイブスはこのシーズン、クボタスピアーズ(現:クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)、キヤノンイーグルス(現:横浜キヤノンイーグルス)ら10チームとしのぎを削った。主将1年目のシーズンでもあった佐伯は並々ならぬ想いを持って試合に臨んだ。

「まずはとにかく感謝しようと。ラグビーできることに感謝しようっていうのが大きいテーマでしたし、観に来てくれる人たちが熱い気持ちで帰れるような試合をしないといけない、そして支えてくれる人たちに恩返ししなければいけないと。

チームには、ラグビーの内容についてはほとんど言ってないです。『ひたむきに努力しよう。一生懸命やることが絶対伝わるから』と。そのプロセスとして良いパフォーマンスを出したらサポーターも喜ぶし、勝てるという考えがありました。人に伝えられるラグビーをしたいと思って臨んだシーズンでした」

2011年、主将としてプレーしていた当時の佐伯(クラブ提供)

開幕戦は41−0で快勝し、上々のスタートを切った。チームは”釜石のために戦う”その想いは1つだった。しかし、6勝3敗と勝ち越したものの順位は4位。目標にしていたトップリーグ昇格は叶わなかった。

結果だけを見ると決して満足はできないかもしれない。ただ、一つ一つの試合の中身は充実していたと当時を振り返った。

「結果としてはトップリーグに上がることはできなかったです。けれども、1戦目・2戦目はチームとしてすごくいい試合が続きました。特に2戦目のクボタスピアーズとの試合。この年クボタはトップイーストに降格した年でした。相手はトップリーグに戻ろうとものすごく気合が入っていた中、大善戦(※)したんです。

最後の最後まで1トライ・1ゴールで逆転するような大接戦だったので、未だにあの試合を見ると泣きそうになるんですね。この年は本当にチームが一つになって戦っていました」

(※)2011年9月18日に秩父宮ラグビー場で行われた試合。8-13と惜しくも敗れるも一時は逆転し、最後まで拮抗した戦いを見せた。

「鉄と魚と”ラグビー”の街」釜石

シーウェイブスが本拠地を置く岩手県釜石市。「鉄と魚とラグビーの街」で親しまれ、ラグビーは街の文化となっている。

ラグビーの街と呼ばれる所以になったのが、新日本製鐵釜石ラグビー部の活躍だった。1978年から1984年にかけて日本選手権7連覇という大記録を達成。司令塔のSO松尾雄治を中心とした選手たちは「北の鉄人」と称され、日本ラグビー史の一時代を築いた。

2001年にクラブチーム化し、現在の釜石シーウェイブスとなった今もその伝統を受け継ぎ、釜石のまちそして復興の象徴として地元に愛されるチームであり続けている。

釜石のラグビーにおいて欠かせないのが「大漁旗」。漁船が大漁で帰港するときに掲げる旗で、三陸沿岸で「福来旗(ふらいき)」とも呼ばれている。

”大漁”という黒く太い文字や赤い魚、青い波のイラストが全体に描かれた大きな旗がスタンドに並んで振られる。新日鉄釜石時代から40年以上続くこの応援は、釜石でプレーする選手の力になると共に相手チームへの脅威でもあった。

地元岩手県大槌町出身の三浦は、1995年に新日鉄釜石へ入部後2012年まで18年間釜石一筋でプレー(最後の2年はコーチ兼任)。その後1年間の専任コーチを経て、14年からヘッドコーチ(HC)に就任し4年間指揮を執った。

この間23年、大漁旗と釜石のラグビー愛溢れるサポーターという強力な援軍を背に戦ってきた。大漁旗の応援の話題になった時、その応援はいつも自分の心に響いていたと満面の笑顔を見せた。

「名前も”シーウェイブス”じゃないですか。津波の波。プラス大漁旗という海をイメージしている。その大きな旗を持ってきてスタンドで降ってくれるというのは、津波が来ても『一緒に苦難を乗り越えるんだ』という想いを感じていますし、この応援は特別だと思って常に戦っていました」

地元岩手で生まれ育ち、ラグビーができることに誇りを持っている(写真左から4人目:本人提供)

2015年3月には一昨年行われたラグビーW杯の開催地にもなった。市役所のモニターで固唾を飲んで見守っていた釜石市民は発表の瞬間、歓喜に満ち溢れた。

三浦も当時開催都市が決まった時の嬉しさを思い出した。

「釜石できたというのはラグビーの歴史があったからではないでしょうか。(新日鉄釜石時代の)V7時代からクラブ化を経てここまでやってきましたが、先代の方達から積み重ねて来れたからだと思います」

2019年9月25日のフィジーvsウルグアイ戦。震災復興のシンボルとして整備された釜石鵜住居復興スタジアムに多くの大漁旗がスタンドを彩った。TV実況ではキックオフの瞬間「ありがとう釜石」の声が響き、日本ラグビー界の歴史に新たな1ページが刻まれた瞬間だった。

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”シーウェイブスは特別なチームです”

両者はそれぞれのインタビューながら揃って口にした言葉である。その心を問うとともに、これから門を叩く若い選手に向けてどんな想いを持ってプレーしてほしいか。それぞれこう答えた。

「我々はクラブチーム、スポンサー様や地域の方々からお金をいただいてやらせてもらっています。そこを理解をして、スポーツマンとして人間性を磨いていくことが大事です。我々の生活というのは一般市民の方々からも支援いただいて成り立っている。そう思って今後もプレーしてもらいたいです」(三浦)

三浦もシーウェイブスのアドバイザーとして現在もチームを支えている(本人提供)

「僕たちはクラブチームなので、支えてくれる人たちがいて初めてこのチームが成り立っています。震災を経験したことは大きなことですし、チームのあり方や置かれている環境を再認識できました。

ただ、自分の考えを押し付けられないですし、選手が自発的に感じれるようになってほしいです。(チームのあり方を)理解できれば、自然とラグビーが好きになっていくと思うんですよね。なので特に選手が感じてくれると僕は嬉しいなって思います」(佐伯)

両者ともに、それぞれの経験を後進に伝えるべく今もスタッフとしてチームに携わっている。

三浦はアドバイザーとしてヘッドコーチの経験を活かし、今の首脳陣にアドバイスを送っている。

また、佐伯は19年の引退後一度チームを離れるも、現場への熱が再燃。自ら「チームの力になりたい」と申し出て、昨年途中からスタッフとして復帰しチームの潤滑油になっている。

佐伯は現在、釜石に戻り市のラグビー人財育成専門員として活動している(本人提供)

同年10月からは神奈川県に転勤し、勤務の傍ら母校の系列校でラグビーのコーチを務めていた。だが、家族やチームのいる釜石に戻りたいという想いもあり、今年7月からは釜石市のラグビー人財育成専門員として帰ってきた。

釜石市をラグビーで盛り上げ、そして未来のラグビー選手育成のために子どもたちと共に汗を流している。

2022年からは新リーグ「JAPAN RUGBY LEAGUE ONE」が発足し、ラグビー界において激動の1年が始まる。シーウェイブスは同リーグでDIVISION 2(2部)に所属。1部昇格に向けて須田康夫HCの下、1部昇格に向けて釜石のサポーターとともにこれからも共に歩んでいく。 (おわり)

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